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■実験小説「ウルールズ」

「この、くずッ!」
 一人の少女が叫んだ。夕方の校舎での出来事である。オレンジ色の斜陽が黒いグランドピアノを濡らしている。そのピアノの前に座る少年の前に少女は立ち、顔を真っ赤にし、怒声を発している。その声は教室の外にまで届いているが誰も咎める者が居ないのは、その廊下を誰も通らないからである。
 ピアノのある旧音楽室は一年前まで行われていた音楽の授業で使用されていた教室で、そのピアノの音などを考慮し、部室棟の一番の上の階に備品室と共に置かれていた。故にその音楽の授業が無くなった今、人気は無いに等しかった。
 この二人がこの殆ど廃墟のような音楽室で何をやっていたかというと、文化祭に向けての練習である。
「……」
 西藤というこの少年はただただ押し黙っていた。それにも、彼からすればれっきとした理由あってのことだったが、その理由を言わない。また少女はそれが気にくわないらしく、二人の雰囲気は見る見る険悪なものに変わっていった。
「ちゃんと、符号に従いなさいよ」
 少女――、富田が腰に手をあてていった。その眉間には皺が寄っていた。西藤は彼女が不機嫌であることをわかっていて黙っていることを決めたのだった。
「聞こえてるの?」
 富田の眉間の皺はどんどん深くなってゆく。西藤は、頑固な男であった。
 沈黙が二人を支配してから数十分が経った。あるいは、まったく時間が経っていないかも知れない。それほどこの沈黙は重かった。
「やる気が、無いのなら、帰りなさい」
 富田は絞るようにしてそのことだけを言った。西藤は何も言わず、鞄を取り、教室を出た。
 一人のこされた教室で、オレンジ色の夕日が降った。

 富田が文化祭で一緒にユニットとして歌うことを持ち出してきたのは丁度一月ほど前だった。学校はにわかに文化祭という祭りの色に染められ始め、じわりじわりとそのことを呑み込んでいくようだった。そんななか、富田は西藤に声をかけた。それまでクラスメイトである富田のことを深窓の令嬢の如く思ってきた西藤は戸惑いつつも返事を出し、練習が始まったのだった。
 家に帰った西藤は、着替えもせずベッドに横たわって少しの罪悪感と、勝利の美酒に酔いしれていた。あのごうまんちきで偉そうな女を打ち負かしたぞ。と思う反面彼女の弱い部分をこの一ヶ月で知った分、それがどこか気になっていたのだった。
 そしてそのままぼんやりと西藤は眠ってしまった。
 翌日、目覚めた西藤は身体に、どこかけだるさを憶えた。
 そのけだるさが取れるのを待っていると、西藤は窓から入ってくるオレンジ色の光を浴び、今が何時かを悟った。全ては、あの罪悪感のせいだと知れた。ベッドから起き上がって学校に行こうとすると、身体が金縛ったように動かなくなるのだ。罪悪感が体中を毒の如く駆けめぐるようなそれは、どんどん大きくなっていった。
 そんな状況が何日も続いた。水とたまに取る食事だけで生きているのだ。ただ漠然とベッドの上で過ごす。ただ、それだけだった。
 文化祭の前日の夜、薄い眠りにつく西藤の頭に一つのイメージが浮かんだ。
 白と黒の鍵盤。つやつやの肌触り。
 見覚えのある楽譜。さらさらの肌触り。
 触れたい。あの女の子。逢いたい。
 西藤が覚醒すると、朝になっていた。
 金縛るものは何もなく、まだ寝ぼけた頭には鍵盤の手触りだけがあった。顔を洗い、何事もなかったかのように西藤は家を出た。足取りは重い。それでも、金縛るものなど、もうこの世に存在しなかった。
 西藤が到着すると、教師陣が驚いたような顔で西藤をステージに通した。もうすぐ演奏が始まるようだった。西藤は何事もなかったかのようにピアノの前に陣取った。
 富野はキッと、西藤を睨んだ。西藤が苦笑する。
 メトロノームが鳴る。
 tone……。

 決して、満足な演奏でなかった。それでも、西藤は満足だった。
 幸運な、ひとときだった。
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